拡張現実の世界へようこそ

コンピュータ中心の世界はまもなく終わる--米VCが描く未来
http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20354687,00.htm

以下には自分なりの構想を考えてみました。学生身分なので突っ込み大歓迎です。

要は?

電脳コイル

PUCな世界

Pervasive Ubiquitous Computingの略。

PUCとは、ネットワーク・コンピューティングが生活のあらゆる面に広く深く浸透している世界を表しています。あらゆる情報機器がネットワークで結ばれ、誰でもがいつでもどこでも情報をやり取りできる環境にあることで、それはもはやパソコンに限られず、個人が持ち歩く情報端末やコンビニ等に設置された情報端末、さらには、外部との情報のやり取りが出来るようになった家庭電化製品にまで広がりを見せます。
http://www.melma.com/backnumber_11351_269639/

ユビキタスの究極系って言えばいいのかな?
あらゆる人が、その場で様々な情報にアクセスできるようになることらしい。

ほんとに来るのか?

ここで疑問に思う。いつくるのだろうか?(ここではいつくるといったことは論じない
アニメや映画などを挙げれば色んなものでPUCな世界を垣間見ることが出来るが理想系というか具体的な定義といったものがない。

技術だけが社会を作るわけではない

では、どのような社会的状況、技術的発展があればPCUという大規模アーキテクチャができあがるのだろうか。

情報の消費活動の活性化

まず、PUCの大前提である「誰でもがいつでもどこでも情報をやり取りできる環境」の裏には「誰もがいつでもどこでも色んな情報を取得したい」という欲求がなければいけません。

情報欲

現代の日本社会ではインターネット上の情報にアクセスするための手段として携帯電話とパソコンの2種類の方法が一般的だと思います。(根拠なし)

ハイブリッド

はっきり言って携帯で事足りるぐらいのコンテンツだったら技術的なニーズは携帯どまりになってしまうのではないでしょうか。

みんなが使いたいと思うことor使わなければいけない環境が必要。

中身あっての外見ですからね。

でも、みんながみんな今まで以上に必要に情報にアクセスする社会ってどんだけ住みにくいのだろう。
経済活動をするのにもあくせく端末を開き、瞬時に物事が決まる。

流動性を恐ろしく挙げることになるのではないか。過剰流動性

結論

PUCは東が論じていた情報自由論から語ると作り手(アーキテクチャ)によってはとてつもなく良い物にもなるし、悪いものにもなる。

PUCを作るのは誰だろうか。
国か企業か個人か。

経済活動からの情報欲求は有り余ってるぐらい必要性がある気がする。
なのでPUCは最初は企業中心に発展していくのではないだろうか。
おしまい。いつ変わるかなんて分からない。